広大な土地と自然豊かな環境に恵まれ、それでいて都市部から程よい距離にある丹波市。この地には大きな工場を必要とする様々な企業が存在します。谷水加工板工業は1961年の創業以来、数多くの大手企業との取引実績を持ち、主に断熱・防音パネルを設計から製造まで一貫してオーダーメイドで手がける会社です。
また、長年の功績は高く評価され、兵庫県の丹波すぐれもの大賞をはじめ様々な分野で表彰を受賞されている丹波市を代表するものづくり企業です。
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・快適な環境を、設計からオーダーメイドで製造する会社
・会社と社長のこれまでのこと
・これからのこと~社員の幸せを実現する会社でありたい~
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今回は、代表取締役の谷水ゆかりさんにお話を伺ってきました。
谷水加工板工業の事業概要を教えてください。
弊社は「あなたらしい快適な環境を創造する」という理念を掲げていて、具体的には断熱と防音のために、様々な建築材料を組み合わせた複合板(パネル)を製造しています。芯に断熱材を入れて両面に鉄板を組み合わせることで断熱パネルや、石膏ボードや化粧合板で防音パネルにしたりといった具合です。
わかりやすい例で言えば、工事現場に置いてあるユニットハウスと呼ばれる仮設事務所や、防音室(ピアノルーム)を製造しています。仮設関係では、最近はトイレを製造することが多いですね。昔はプラスチックの薄い壁でしたが、今は熱中症対策で、しっかりと断熱材を仕込んだカラー鋼板の壁で囲って、現場作業の人がヘルメットを掛けられるようになっていて、エアコンも付いています。男女別なのはもちろん、快適性を追求した高級化の波がきています。
主軸商品といえば何になるんでしょう?
今は、断熱性能のあるユニットハウス関係の仕事が多いですね。例えば、学校の建て替え工事をする際に使う仮設校舎の壁材を造っています。また、災害時には仮設住宅や校舎、トイレを大量に生産することになります。弊社は壁パネルの大量生産ができるので、おかげさまで結構忙しくさせてもらっています。
近年、鉄を溶接できる設備を導入したんですが、それによって受けられる仕事の幅が一気に広がってきましたね。
ユニットハウスの内装や設備工事なんかもされるんですか?
いいえ、災害時の仮設住宅の内装や設備工事に関しては、その地元の業者が行うと聞いています。私たちは仮設住宅一式を揃えているわけではなく、骨組み・壁・屋根など建物を造っています。
なるほど。御社の顧客は、対企業が多いんでしょうか?
そうです、全て企業向けのB to Bです。例えばピアノルームは、実際の用途としては一般家庭のピアノ練習のために使用されるわけですが、弊社はその製品をお客様に向けて販売する会社(代理店)に納めるという流れになります。これまで納品してきたピアノルームは524台になります。大手企業が作る決まった型の既製品ではなく、すべて特注で製造しています。
弊社の事業は全般的にOEMで、クライアントからの依頼を受けて製造しますが、自社で設計から行えることが強みです。ピアノルームでいえば、代理店の方が現地の寸法を測ってきて外側の寸法が決まります。その後、内側の設計をして製造、納品します。特注は、既製品では実現できない細かなご要望にもお応えできる分、お客様の満足度も必然的に高いですね。
524台はすごいですね!エンドユーザーと直接関わることはないんですか?
直接お会いする機会はほぼないので、お客様ご本人から喜びの声を伺うことがないんですね。ピアノルームを購入したお客様が、ご自身のブログにそのことを書いてらっしゃるのを見つけて、そういった嬉しい発見は朝礼で社員に共有します。やはり、喜んでもらっているのがわかると、モチベーションがあがりますから。
少し変わった例ですと、全国どこの消防署にも必ずといっていいほど、放水訓練用の建物があります。あの、放水しても壊れない壁なんかも、実は弊社で製造しているんですが、YouTubeにその放水訓練の様子や、訓練大会で優勝されたといった動画をあげていらっしゃるのを見かけたりもします。弊社の商品が役立っているのを知ると、とても嬉しいですね。
先ほどの強みについて深く聞いておきたいのですが、設計を自社で行うことが強み、というのはどういうことなんでしょう?
具体的には、クライアントから「こういう製品をつくりたい」という要望をいただき、それに対して私たちが設計を組み立てるわけですね。そのための材料をクライアントから支給してもらい、弊社で製造し納品するというのが基本的な事業の流れになります。
やっていることは、端的にいえば“下請け”なんですが、完成品の設計はこちらがもっているので、純粋な下請けとは大きな違いがあります。弊社の2つ目の理念として、「開発に意欲的、提案型の企業であり続ける」を掲げているのは、まさにこのことで、弊社は設計開発をする工場でありたいと考えています。そのために、自社で考え工夫して、実現させていこうという企業風土を大事にしています。
社長自身のことも聞いておきたいんですが、社長に就任されるまでは何をされていたんですか?
ここで設計の仕事をしていました。現会長の父が創業者で、創業時は断熱材の木毛セメント板の製造からスタートしました。娘ということもあり、社長の秘書みたいなことや営業事務とか、いろいろ何でもするという感じでしたね。
そういえば事務所の玄関に、一級建築士の額が飾ってありましたね。
頑張って取りましたね。私は負けず嫌いですから(笑)。
柏原高校を卒業後は大阪工業大学に進学して、家業のこともあって建築や設計の勉強をしました。私の在学中はバブルで景気のいい時代でしたから、教授推薦で大手の建設会社に就職が決まっていたんですよ。
喜んでくれると思って父に話をしたら、「いっぺん都会で就職してしもたら、丹波には絶対戻ってきやへんから、あかん!」と大反対されて、泣きながら帰ってきたんです。それでもう、当時は本当にふてくされて(笑)。
バブルは何十年も前ですし、お父さんがというよりは、時代といえば時代ですよね。
正直、当初は仕方なく働いていたところがありましたね。当時の氷上郡は高速のインターもない時代で、夜は真っ暗で行くところがないから、土日になれば友達を頼って大阪に遊びに行って、日曜の夜に帰ってくるみたいな生活でした。
私の中で、「あの大手の会社に就職していれば・・・」と何度も後悔して、絶対に親の前で笑わない!と決めて暮らしたりしていました(笑)。でも、その時の悔しい気持ちが、「もっと女性が認められて活躍できるようにしたい」「ここに居場所ができるようにしたい」という想いになり、会社とは別にNPO法人Tプラス・ファミリーサポートを立ち上げていく原動力に繋がっていきました。
なるほど。事業承継はいつされたんですか?
2016年ですね。事業承継した当時は会社として一番大変な時期でした。女性の活躍なんてまだまだ遠くて、社員は全員男性で女性は私と母でした。父は「もっと会社をよくしてから譲りたい」と思っていたようですが、もともと心臓が弱かったのと年が行って、社長交代となりました。
社長になって何より大変だったのは、「工場では自分が何もできないこと」でしたね。自分ができないのに指示を出さないといけない。気を使いながら『こうしてほしいんやけど』とか、お願いすることが申し訳なくて社員に赦してもらって頑張ってきた感じです。
“失われた30年”というやつでしょうか。そもそも、何すればいいかもよくわからなかったでしょうし。
地域で事業承継した人たちは、大なり小なり、みんな必死で乗り切ってきたんだと思います。周りからは『でもそれは自分で選んだんやろ?覚悟しないと』なんて言う人もいましたが、正直な気持ちとしては「選ばないとしょうがないから選んだんや!」という気持ちでしたね(笑)。
今はやっと軌道に乗せることができて、全部笑い話として話せますが、当時は大変でしたよ。商工会や中小企業大学校のセミナーに参加して経営の勉強をしたり、社員の皆さんにやりがいを感じてもらえるように心理学を勉強したり。
「良くしたい!」負けず嫌いな性格に助けられたところがあるような気がしますね。これは父親の教育のおかげです。
その、軌道に乗せることができたというのは、どういうきっかけがあったんでしょう?
最近のことでいえば、大きく2つあります。一つは、取引先だった大手商社で営業部長をされていた方が弊社に転職してきてくれたんです。私から来てほしいと説得したわけではなく(笑)、『自分が培ってきたものを中小企業で生かしたい』と言って来てくださいました。
やはり商社の人だったからか、物事を見る目が俯瞰的なんです。「世界の中の日本、日本の中の兵庫県、兵庫県の中の谷水加工板工業が、どういう強みがあるのか」といった具合に、考える視野がとても広いんですよ。おかげで、自分たちが一生懸命だったからこそ見えなかった無駄や、目指そうとしている方向性の修正など、気づくきっかけをくれましたね。
外部から入ってきたコンサルと社内の人が合わず、といった話は世間一般でよく聞く話ですが、うまくいったんですね。
私も最初、指摘された時はカッコ悪いなと(笑)。まさに図星なところもありましたし、しかし事業計画も見事にまとめてもらったので、「任せてやってみよう」ということになりましたね。
そうすると、社員同士の役割分担もみんなが協力してくれて、事業発表会や全社員向けの研修ができるようになったり、少しずつ良くなっていきました。
なるほど。もう1つはどうでしょう?
息子が帰ってきたことですね。大学を卒業して大手自動車メーカーのディーラーで働いていたんですが、『やっぱり丹波が好きや』と言って、辞めて帰ってきました。やはり後継者の見込みがあるという理由で金融機関からの評価もよくなりますし、帝国データバンクの評点は52になりました。同年代の友人を社員として引っ張ってきてくれたり、新しい空気をつくってくれましたね。
ただ、丹波に帰ってきてうちで働くということは、「やっぱ、やめます」は通じないから、そこはちゃんと考えるようにと話しました(笑)。今でも笑い話として言いますが、ありがたいことで、それだけ丹波のことが好きなんですね。
今後の展望を教えてください。
事業計画にもまとめているんですが、2030年までに年商20億を達成するという計画に向かって動いています。計画の期日と金額を決めた時は、「どうやって?」と皆が思っていましたが、今では達成までの道筋が大体シミュレーションできるようになってきています。
実現できたら、社員数は今現在の25人から80人に増えて、平均給与も年間160万円アップできる試算です。私は「社員の幸福度をあげるためには、給与をしっかりあげていきたい」という考えを大事にしています。それが結果的に、会社にとっても私にとっても、幸せなことなんだろうなと思っています。
すごい規模感になってそうですが、その筋道を描けているのがすごいと思います。
2030年、年商20億を達成したらどうなっているかを具体的に書いたビジョンがあるんですが、若手社員に頼んで動画にしてもらって、事業発表会の時にみんなで一緒に見たんです。そしたら中には涙する人もいました。まだまだ達成してないんですけどね(笑)。
最初は『そんなん無理やろ』という社員もいましたが、動画で共有したことで、「いつまでに何をしなければいけない」、「今やるべきことはなにか」と一人ひとりの日々の具体的な動きに現れるようになってきたんですね。実現できるんじゃないかという空気に変わってきました。
素敵ですね。
社員が今現在25人で、そのうち15人程がフルタイムで働いています。今は工場での製造を主に募集していますが、工場では女性社員も活躍していて、それぞれの特性に合わせた仕事の進め方を心がけています。
例えば、男性にしかできないと思われがちな仕事でも、女性ができるように作業手順を分かりやすく、道具や機械をひと工夫すれば、むしろ効率がよかったりします。
女性社員のなかには『効率よく作業したいので、フォークリフトの免許とりたいです』『機械の設定操作するところからさせてください』と、自分から言ってくれる人もいて、非常に心強く感じています。
素晴らしいです。
弊社には他にも、シニアやコミュニケーションが苦手な社員、様々な学歴や経歴の社員がいたり、多様な人たちがいてそれぞれの特性に合わせて業務にあたってもらっています。髪の毛の長さも色も自由です(笑)。
私たちの製造業は、職人気質だけではやっていけない時代だと考えています。ですので、給与体系を決める人事評価では、「他の人に教えられるかどうか」に一番重きを置いています。ベテラン社員との個別面談でも、『若い子にもちゃんと教えてあげてよ。あなたはもっと難しいことをできるようになって!』と伝えています。
最後に、未来の社員となる人にメッセージをお願いします
弊社は、市外から引っ越してくる人のために社員寮を用意しています。移住と合わせて転職先を探している方も、興味があればぜひお越しください。ママやパパが働いている姿がかっこいいなとよく見えるように、企業内託児所を設ける話もしています。
最近では社員の息子さんが働きに来てくれることもありますが、私たちは、社員が安心して身内に勧められるような職場でありたいと思っています。前向きな素直さと明るさがあれば、誰にでも必ず活躍できる作業がありますし、一人ひとりの強みを生かし合える環境があって、ここで自己実現してもらいたいです!
私たちの想いに共感していただける方々と一緒に、事業を進めていきます。