株式会社オオツキは、丹波市春日町を拠点に、作業服や安全靴、ヘルメットなどの作業用品を中心とした小売・法人営業を展開する企業です。兵庫・京都を中心に17店舗を展開し、地域ごとのニーズに応じた品揃えと、きめ細やかな法人営業で信頼を築いてきました。
創業は1948年。戦後の行商から始まり、現在では従業員約100名を擁する企業へと発展しました。独自ブランド「USIMO(ウシモ)」などの開発にも取り組み、全国・海外へと販路を拡大中。地域に根ざしながらも挑戦を続ける、丹波市を代表する企業です。
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・お客様のニーズに合わせて事業を構築していく企業
・オオツキと社長の歴史
・失敗を恐れずチャレンジをしていく仲間を募集
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今回は、代表取締役の大槻祥三さんにお話を伺ってきました。

オオツキの事業概要を教えてください。
作業服と作業用品の小売りと、事業所様への法人営業が中心です。法人営業というのは、こちらから事業者様のもとへ出向いていき、商品を販売という形です。
作業服を作ってるメーカーではなく、仕入れたものを販売しているということですか?
そうです、仕入れたものを販売しています。恐らく、弊社の看板はかなり目立つので、丹波市内の方は店舗に入ったことがなくても、必ず目にはしてもらっていると思いますね。

今現在、店舗は何店舗あるんでしょう?
全部で17店舗です。丹波市内に2店舗、その他兵庫県内に11店舗、京都府内に4店舗あります。以前は三田市にも店舗がありましたが、立地特性から法人営業の売上比率が圧倒的に高かったこともあって、今は営業所として稼働しています。
コロナ禍を機にワークライフバランスを見直し、思い切って各店舗で定休日を設け、営業時間も短縮したんです。勇気のいる決断でしたが、スタッフも気持ちよく働けるようになり、結果的に売上が向上しました。
仕入れたものを販売されているということですが、やはり自社で商品を作るより経営しやすい側面があるんでしょうか?
過去にOEMで自社製品を作ったことがあるんです。ただ、最低数の製造ロットがあり、売れ残りもでてくる中で在庫管理の課題を考えると、あまりメリットがないという判断ですね。
それよりは、各メーカーさんが良いものを作っている中、自社商品にこだわらずに、最適なものをお客様に販売することを考えれば、世にある優れたものを仕入れる「目」を育てる方が重要だと考えて、僕が社長になった時に今の形をとりました。

法人営業は、会社の作業服とかの販売になるんでしょうか?
ヘルメットや安全靴はもちろん、手袋や掃除道具、ゴミ袋、トイレットペーパーなどの日用品も取り扱っています。事業所様の事務員さんがホームセンター等に買いに行く手間を弊社が代わりに担っているイメージが近いですね。
今のご時世、ネットで買うことはできますが、商品選びにも時間がかかり、自社で毎回個別に買うのも大変です。それが電話1本で済むので、店舗と法人営業の売上比率が逆転するほど、重宝していただいています。
仕入れ商品を販売しているということは、今店に並んでいるものはよく買われるものなんでしょうか?
そうですね。ただ、地域によって客層が異なりますし、日本海側と瀬戸内海側でも売れ筋が全然違うので、店舗や地域ごとの需要に応じて置いている品揃えを変えています。
弊社は仕入販売なので、少量多品種に対応できるのも強みです。「こういう物がないのか」と言われれば、探してきて提供するのが得意です。長年続けてきたことで、仕入れ先は500社を超えています。

営業職にノルマはあったりしますか?
目標は設定していますが、未達成だったからといって罰則があるわけではないので、いわゆるノルマとは考えていません。現場の声を取り入れて、数年前から目標達成の報酬として会社でお弁当を出したりするんですが、みんなが楽しみながら頑張ってくれるようになりました。
SNSで牛用の防寒具を開発されたという記事をみましたが、そちらはどうでしょう?
USIMO(ウシモ)ですね。5年程前にお客様からの要望で作りました。「人間は寒さに耐える術があるが、生まれたての子牛は寒さで死んでしまうことがある」という話から、牛用の防寒具を開発してほしいというご依頼でした。
最初は防寒着にしようと思いましたが、サイズがわからないので、人間が着る用の電熱ベストの仕組みを応用したマフラーを開発しました。もともと取引のあったメーカーに協力いただき開発した、オオツキの完全オリジナル商品です。

なるほど、そういった仕組みのものだったんですね。
今ではそこから派生して、子牛用の夏用マフラーと冬用ベストも商品化しまして、それらの商品に関しては全国的に販売を進めています。とてもニッチな商品なので、需要喚起にはまだまだこれからといったところですが、テレビに取り上げてもらったりと注目度は非常に高い商品です。

オオツキの歴史について教えてください。
1948年8月に、戦争から帰ってきた祖父が、日用雑貨の行商を始めたのが原点になります。もう祖父はいないので、把握しきれていないところもありますが、元々は農家で、お米を売ったお金を元手に、主に資生堂さんの石けんを販売していて、当時の月商で約100万円ほど売っていたそうです。
すごいですね。
資生堂さんの中でも、「丹波の山奥にすごいやつがおるぞ」と注目されて、特約店のような看板をもらえるようになったそうです。驚異的な数字を売り上げていたことになるので、すごい人間やったなと思いますね。
その後、1962年に法人化し、そのタイミングで行商を始めた春日町中山から、春日町黒井に拠点を移しました。その前年に、父が婿養子としてオオツキの事業に加わり、その頃から日用雑貨以外に靴の卸・小売りもするようになりました。

今の基盤になったんですね。
その後、社長に就いた父が1975年に病気で亡くなり、母が経営を担うことになりました。商売が苦手だった母は、本当は会社をたたもうと考えていたそうですが、従業員に「辞めてください」と言えずにいたんです。
その後は渋々商売を続けていましたが、ある日突然商売に目覚め、靴の卸仲間から作業服屋の話をいただいたので、1981年4月に作業服屋の1号店を出したんです。そこから、「従業員一人ひとりが責任を持てるように、その子の店を出そう」と決め、新規出店の流れを作っていきました。

なるほど。あのオオツキの印象的な看板はどのタイミングで出てきたんでしょう?
作業服屋を始めた時は、紹介元の関係で「だるま屋」という名前でした。4店舗まで展開した後に関係を解消したこともあって別の名前を考えようとなったんですね。「ビッグムーン」とか色んな案が出ていたことを子ども心に覚えています(笑)
最終的に「ワークショップオオツキ」になり、キャラクターも作ることになりました。だるまに服を着せて、当時はノミとトンカチを持ったデザインでした。よく聞かれますが、実在の誰かをモチーフにしたわけではないんです。
なるほど。彼はダルマ君だったんですね(笑)
長年そのキャラクターで親しまれてきましたが、僕が社長になってから十数年前に、女性のお客様にも気軽に足を運んでもらいたくて、彼に「結婚してもらおう」ということになったんです。奥さんと息子を加えて、息子はお父さんを手伝っている設定です。それで今の看板になりました。

そんな流れがあったんですね。大槻社長は元々丹波市出身ですよね?
生まれも育ちも丹波市春日町です。オオツキが法人化した後に生まれたので、物心がつく前から会社があったということですね。
大槻家として、僕の出生の1番の目玉というのは、祖父も父も婿養子だったので76年ぶりの男だったことですね。名前の「祥」の字は「めでたい」という意味の「瑞祥」からきてるんです。
なるほど。高校はどちらへ?
地元の柏原高校です。そこから大学へ進学して、卒業後は3年間、他の会社で働いていました。当初は5年ほど経験を積む予定でしたが、その頃に祖父が亡くなり、母から「来年帰ってきてほしい」と声がかかりました。そこで予定を早めて、25歳の時に丹波市へ帰ってきました。

社長就任はどういった経緯だったんでしょう?
当初、母は55歳で引退を考えていましたが、その時僕が28歳で、事業に加わって3年目。それはあまりに早すぎるので、2人の間では一度第三者に社長を任せて、僕が40歳で引き継ぐという筋書きが理想的でした。
ところが、母が出店拡大のために金融機関へ融資の相談をした際、「社長が第三者では難しい」と言われたそうなんです。その後、継ぐ・継がないの話し合いがしばらく続いていました。僕としては、社員のほとんどが年上で、まだ荷が重く、自信が持てなかったんです。
早すぎる交代も大変ですもんね。
しばらくは事業継承に踏み切れずにいたのですが、弊社で感謝祭をしていた際に、母が溝にはまった事があったんです。幸い大事には至らなかったんですけど、その時フッと最悪の事態が頭によぎって、「明日から自分が社長をしないといけない」って、考えたんです。
そこで「自信のあるなしじゃなくて、もうこのタイミングでいいか」と感じました。その後、役員会議で社長交代の承認をいただき、31歳の時、1998年に引き継ぎました。振り返ると、いい踏ん切りがついたなと感じますね。

家業を継ぐことはやはり「長男だから」というのはありましたか?
父が早くに亡くなったこともあって、親から直接「継いでほしい」と言われたことはありませんでした。ただ、なんとなく「自分がいつか継がないといけないんだろうな」という意識はありました。
田舎なので、近所のおじちゃんが父親代わりのような存在で、悪さしたら怒られましたし、僕は長男で男1人やから『お前が母親を支えて、いずれはオオツキを継ぐんやぞ』と、ずっと言われてたんで、自然とそういう気持ちでした。
時代ですね。
僕はそう言われることが嫌だったんで、自分の息子にはあまり言ってないんですよ。それでも、僕が「靴屋の息子」と言われてきたように、彼は「作業服屋の息子」と言われてきたこともあり、小学校の文集では「将来はサラリーマンになりたい」って書いてましたね(笑)
でも、中学生の時、両親への手紙を書くという宿題で、「父ちゃんを助けようと思う」といった内容を書いてくれていたことがありました。泣けるわと思ってすぐコピー取りましたね(笑)

いい息子さんですね。
僕も田舎から都会に出て、外の暮らしの面白さを知って、『こんな田舎には絶対帰らない』って思っていた時期もありました。そういう経験をしてきたから、息子には、自分の選択には責任を持つことも含めて、最終的には自分で選ぶよう伝えてきました。
僕も母親からよく『あなたには選ばしたよ』って言われるんです。内心は「右を選んでも左を選んでも、家業を継ぐのが前提で、遠回りか近道かだけの話やんけ」とも思いましたけどね(笑)
今後の展望について教えてください。
弊社は地方に根差す会社です。1つはっきりしてるのは、今後、人口減少や過疎化も進む中で、働き手やお客様も減少していくでしょうから、単純に店舗を増やすことで売上拡大をめざすことが必ずしも正解ではないと考えています。
それは一見、夢のない会社と思われるかもしれませんが、各拠点において法人営業を強化することで赤字を抑えることができ、実は今では1店舗あたりの売上・利益が過去最高を確保できているんです。

合理的な判断ですね。
そうした本質的な基盤をうまく活用して足腰の強い会社にすることで、社員の昇給も実現できます。だからこそ、お客様により良いサービスを提供できる。そんな会社をめざしています。
もう1つはUSIMO(ウシモ)です。今は国内全域で販売を進めていますが、今後は海外展開も視野に入れて動いています。より効果的に進めるために、商社と連携して代理店を作り、弊社はメーカーとして収益を得る形での拡大を狙っているところです。

現在、従業員は何名いますか?
約100名です。管理部門が10名ほどで、残りは全て店舗スタッフと営業です。平均年齢は45歳ほどで、男女比は女性6割、男性4割です。雇用形態も、正社員4割、パート6割という構成です。
どういう人に来てほしいですか?
人が好きな人、話すことが好きな人ですね。そして明るくて素直な人です。弊社の仕事は便利屋さんのような側面がありますので、人の役に立つことが喜びと感じられる人なら、すごくやりがいのある仕事だと思っています。
失敗しないのは何もチャレンジしていない証拠なので、失敗を恐れずにチャレンジする精神がある人は本当に魅力的です。

学歴など採用条件はありますか?
基本的にはありません。性別も問いません。ただ、営業職で即戦力としてすぐに活躍していただけるという点では、大学を含めた社会人経験も重視しています。やはり様々な社会や人に関わってきた経験がある方のほうが馴染みやすく、成果につながりやすい傾向があるため、過去の経験は十分配慮して採用しています。
最後に、未来の社員となる人にメッセージをお願いします
成長のためのチャレンジができる環境は用意します。会社は社長1人でできるものではなく、社員みんなで作りあげていくものですから、一緒にいい会社を作っていきましょう!